以前もこのテーマのことを書きましたが、新たに気付いたことがありますので、また、書かせていただきます。
先日、年長児の道徳で扱ったテーマです。教材には何かをしてもらったことに対して、「ありがとう」を伝えようという内容が書かれています。それは当然のことなのですが、なかなか伝えられないものですね。自分もその一人で、見ず知らずの人には言いやすくても、家族や親には言いにくい…なぜなのでしょうね。言えたとしても、相手に聞こえるかどうかの音量で。恥ずかしさが大きいのでしょうね。。。
その「ありがとう」という言葉。対義語は何だろうと思い、流行りのチャットGPTで調べると、「ごめんなさい」「すみません」などが出てきました。それも確かにありますが、ありがとうを漢字で表すと「有難う」となります。
有る=存在と考えると、存在していることが難しい、ですので、その対義語は「当たり前」になります。
日頃、当たり前と思えることに、ありがとうという気持ちは湧きません。ただ、その当たり前と思っているものって本当に当たり前なんでしょうか?
そう考えると、身の回りにある物、出来事、全ては有難いものへと変わると思います。
その例を挙げると、今日のような心地の良い天気。数日前、肌寒く感じました。またその天気も、今日の天気を心地よく感じるためには、数日前の天気があってこそ。
また、コンビニやスーパーで商品を買うことができるのも当たり前ではありません。
その商品ができる原材料…自然物であれば、神が作り出したと思うほどの偶然の連続で、一つの生命体として生きてくれ、それを商品にしようとアイディアを持って実際に作ってみた人、その技術を機械を通して大量生産を可能にしてくれた人、供給が途切れないように大きな投資をしてくれた会社、その生産を支える従業員、できた商品を輸送してくれる人、その仕事を支える会社、それを販売してくれるお店、それを支える従業員…まだまだ自分にはわからない人達や自然の支えがあって、その一つの商品をお金を払って手にすることができます。
そして、非常時には物があってお金があってもその商品を手にすることはできません。
ついつい忘れてしまいますが、全てのものは当たり前ではなく有難いものです。当たり前と思うから、不平不満が出るものです。不平不満と感じたくないものです。そのためには、当たり前という考えや基準を捨てなければいけないと考えさせられました。